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2007年3月14日 (水)

私のインプラント事始めその4

 さて、ここで一度後戻りになりますが、私が大学に残っていた当時、すなわち今から約20年位前の状況を記したいと思います。医科歯科大学は比較的保守的だったと前に書きましたが、ブローネマルクのシステムが広まってきつつある当時、大学では第2補綴(クラウンブリッジの講座)の一部で、アパタイトインプラントの研究が行われていました。小木曽先生という方が中心になって行っていたのですが、毎年何人かの大学院生が論文を上げており、活発な活動を行っていました。第2補綴の主流派は昔から顎運動、咬合の研究チームで、大学の中でも最もアカデミックというか、誇り高き先生方がいらっしゃるところでした。その中でインプラントをやっていた人達は、小木曽先生がけっこう独特のキャラクターだった事もあいまって、異端扱いされていたのではないかと思います。また教室の外でも、面白く思っていない人も多かったようです。
 私の事情を書くと、卒後顎口腔機能治療部といって顎顔面補綴の部屋に残ったのですが、主任の大山教授は当時インプラント否定派でした。私たちの教室はまだ歴史が浅く、大学院生も私が6人目でしたが、これまでの研究テーマは顔面補綴の彩色に関すること、軟質裏装材に関すること、口蓋裂の補綴に関する事と続き、私は上顎欠損の維持装置に関することを行いました。ところが私の下の大学院生は、うって変わってインプラントのテーマを与えられました。それは生体ガラスという材質を用いたインプラントの基礎研究でしたが、教授は将来的には歯根膜を作ることが可能と考えていたようです。残念ながらこの材質は実用に至らなかったのですが、当時はチタンが実績を重ねる中で様々な材質が試みられていたようです。そんな事情もあって、私自身もどうもインプラント嫌いみたいになっていたようです。

 話を戻して私の同級生で、小木曽グループの大学院生となったのが2人いました。一人はクラブも同じオーケストラで、非常に仲の良かった益田高行君、もう一人はクラスの班が一緒で、やはりよく知っている魚島勝美君です。益田先生は現在も医科歯科の第2補綴に残り、教育に研究に活躍しています。魚島先生は新潟大学歯学部総合診療部の教授となり、これから私の息子がお世話になる予定です。また補綴学会関越支部会でよくお会いする機会もあります。さらにその2年下の大学院生に、前橋の田新歯科医院の石原秀一郎君がいます。石原先生は私の高校の同級生、それも同じクラスで机を並べていた中です。当時はみな動物実験を熱心に行い、アパタイトのインプラントやアパタイトによる顎骨の骨増生の基礎実験など、今考えるとまさに最先端をいく研究をしていました。群馬県にもインプラントを看板にしている有名な先生が何人もいますが、基礎からの本当のオーソリティは石原先生なのでは、と思います。私もインプラントについていろいろと教えていただき、またお互いに医科歯科の補綴関係の講座出身という事で診療の基本的なコンセプトは共有しているので、有意義に情報交換をさせていただいています。

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